リエコの手帳

趣味と暮らしの覚え書き( ◠‿◠ )

師の記憶。

私が過ごした時間の中に、記憶に強く残る師がほんの何人か居た。


居た、というのは、今そのどなたともお付き合いの糸が途切れてしまって居る為だ。

出不精がわざわいしている。


学校に行く事が嫌いな子どもだった。もちろん幼稚園に行く事も嫌いであったし、習い事や塾も嫌いであった。

即ち、師という者も嫌いであった。これは仕方のない、ごく自然なことだった。


しかしそんな私にも、記憶に強く残る師という方が何人かいるというのはとても奇妙な気持ちになる。


ある師は某ドラマさながらの熱血中学教師だった。

私にとって学校に行く事はさほど重大な意味を成さなかった為、学校に行く事が最大善であり、学校で行われる出来事の殆どが感動を伴う善だという熱血教師はただ疎ましく、私にとって酷く詰まらない存在だった。


しかしその教師は一味違った。

綺麗事を並べ、闇に厳重な蓋をするような人間ではなく、闇にも果敢に向き合う姿勢が珍しかった。それは休日も放課後もない様な向き合い方で、過労の心配をするほどであった。


その教師を見て感じていたのは、教師という仕事が大好きなのだろうと言う事だ。


結果的に、美術が担当科目であったその教師の計らいで、私はさほど苦労する事なく希望する高校に進学する事ができた。大好きな分野では苦労する事などない、しかし彼の協力なしでは難しかった事だと強く感じている。


風の噂では、校長になったらしい。

彼のような人材がならずして誰がなるのだろう。

 

ある書道塾の師匠が居た。

私はその書道塾が好きで、その師匠が好きだった。

決して優しく甘いタイプではない、少し怖いようなクールなタイプのお婆さんだった。

何が好きかというと、子ども達が日本茶を淹れ、大人の生徒も子どもの生徒もみんないっしょに少し高価な茶菓子を食べる事が好きだった。

 

そしてもう一つは字が上手い事が気に入っていた。

書道塾の師匠なのだから字が上手い事は当たり前だろうと皆さんは思うだろうが、実際はそうではないのだ。

他塾の先生の作品と並ぶとありありとわかる。私の師匠の字は上手い。


二十歳くらいの頃の話らしい。

らしいと言うのは私の記憶からすっかり抜け落ちてしまっているからであるが、これは友人から聞いた話だ。


友人は私からハガキをもらい、ある展覧会へ赴いた。

そこは日展の会場で、私のお師匠が入選したとかで作品が飾られていたらしい。

言われてみればそんな事もあったのかもしれない。


然しここからは全く記憶にない。

お師匠のお弟子さんの作品ですよとの事で、私の作品も会場に飾られていたらしい。こういう件が記憶にないなんてあるのか?とも思う。なぜならそこそこの展示に飾るなら表具代もそこそこかけているだろうし…。


時期的にみるとこの後すぐ書道を辞めてしまっている。師範を取ったら満足してしまったのだ。

その辺のバタバタで記憶から抜けてしまったのだろう。


しかし自分の意思で行きたいと言い、一番長く通った習い事はこの書道塾だ。

私の人生で日本文化らしい活動をしたと言えばこの習い事で、今も身体が覚えている。今想えば貴重な時間だった。


師匠の年齢を鑑みると、恐らくもう引退してしまっているだろう。

あの書道塾が好きだった所為で、また書きたいと思ったとて他の書道塾に通う気になれない事が残念だ。(親しみをこめて)良い師の弊害と言える。


師とは、何も先生という立場の方だけに留まらない。


振り返ってみると、師と呼ぶに相応しい、私に宝石に就いて教えてくれた、おじさん・おじいさんが何人かいる。


小さな小さな宝石店のおじいさんは、私にルーペの扱い方と、仕入れの仕組みを教えてくれた。このおじいさんがいなければ、私はジュエリーの買い物の失敗はもっとしているだろうと思う。


ある彫金師は、私にジュエリーの造りを教えてくれた。

これを知っているかどうかでは雲泥の差で、良いジュエリーを見分けることに役立っている。


ある宝石商のおじさんは、私に色石の魅力を教えてくれた。それは市場では評価され難いが為に売り辛い石であったり、欠点があるがために手が届くような石だ。

これを知らなければ、私はコマーシャルネームや宝石の流行に凝り固まり、視野が拡がることはなかったであろう。

 

出会えた全ての師に感謝してならない。

その出会いで導かれた場所で得た感動は大きい。

決して私一人では辿り着く事は出来なかったであろう。


私にとっての師とは、

こうですよ!ああですよ!これはダメですよ!

と、教えてくれる存在ではない。

こういう存在は、師としては膨大な数が居るが私の記憶には残らない。


私にとっての師とは、その分野を大いに愉しみ、その生き生きとした自分の姿を見せつけてくれる存在だ。


余計な事は語らない。語る必要が、まずない。

自分の姿をただ見せていただけに過ぎない。


そして、折をみてそっと私に打ち明けてくれるのだ。彼らの愉しみの一ページを。

私は手渡されたその秘密のページをめくり、感動をする。そして直ぐに共感をした。

 

そんな師匠達の記憶、師匠達の表情の豊かさを思い出し、ゆっくりと反芻する事で時空を超えていく。

あの鮮やかな記憶を想い出しては、今も尚愉しみに身を委ねている自分が居るのだ。