先日祖母が、こう言った。
「もう貯金は辞めだ、お金は使って仕舞おう。」
私と二人きりで居る際の発言だが、厳密にいうと、大病をして声帯を失った祖母が筆談でそう伝えてきたという情景だ。
私の祖母は、お金を使ったりお金を貯めたり、なんならお金を稼ぐ事も上手で、経済的な自立心が強い人である。
だからそんな祖母がはっきりと、貯金は辞めだというのは珍しく、ああやはりこの年齢で大きな病気をすると言うのは色々な覚悟があるのだなと悟った。
お金という存在はとても不思議だ。
それは間違いなく有限な物のようにも感じるが、世の中をただフワフワと漂っている限りなく無限の存在であるかのようにも感じ、正体が掴めないような気もする。
あるインターネットの記事に、お金を貯める事に異常な執着があり苦しいのですという様な相談があった。
相談者は子育てをする専業主婦で、貯金が趣味だと言う。
然しながら、その趣味は自身でも常軌を逸していると感じている様で、必要以上に食べる物を切り詰め、必要以上に物を買わずに家族にも我慢を強いるような逼迫した状況だという。
私はこの相談を読んでこう思った。
「明日死んだらどうするんだろう?」
私の個人的な気持ちを言えば、貯金は大切だと思う。
長い人生、常に困らずに気持ちに余裕を持って暮らすには必要な行為だ。
長い人生…?
長い人生、そう皆が口を揃えて当たり前のようにいうが、本当に皆が長い人生を過ごす事が出来るのだろうか?
現代人は医療の発達と経済の発達、そして日本に於いては個人の気持ちの面でも治安が比較的よいので、若くして人が死ぬ事は稀だ。
私はあまり歴史に詳しくないのだが、中世のあたりでは、人ひとりの命が軽んじられていたと言うし、病気や犯罪に巻き込まれて呆気なく死んでしまう事は日常茶飯事だったと聞く。即ちメメント・モリである。
然し現代の日本に於いても、若くして突然死んでしまう事は稀だが、ただ稀であるだけで死んでしまう可能性は全くゼロではないという事は皆が意識をしている事なのだろうか?
よくある保険のCMでも、働けなくなったら?とか災害にあったら?などと聞くが、死んでしまうかも知れないからそれを加味して行動しようかなどと言う話は聞かない。(保険のCMだからだ)
我が祖母などは、大病をするまでは病気らしい病気をした事がなく、自分はそのような病気になる事はないと言い切っていた。
私はそれを聞いていつも、なぜそう思い込めるのだろうか、そしてその確信はどこから来るのかと不思議で仕方がなかった。
そんな祖母が大病をし、すっかり治った今は自分の死を意識すると同時に、元気なうちにある程度お金を使って楽しもうと、わざわざ私にコソッと発表してきたのだ。
人は長生きしてしまうかもしれないし、短命かも知れない、そうメメントモリの如く日々意識をして生活をしていたら、自然と一日一日を大切にする事ができるのではないか。
そして、貯金と消費のバランスは最適な物を選び取れるのではないか。
そう言えば日本では(外国ではどうかはわからない)何やらこう、死んだらどうするの?などと発言して仕舞おうものなら、縁起でもない!とピシャリと遮られてしまうきらいがある。
まあ確かにそうなんだけど、そうだし縁起でもないのだけれど、その事実に蓋をして見ないふりをするよりも、きちんと意識をしていつ死んでも後悔がない様に生きることは却って縁起が良いような気がするのは私だけだろうか。
とはいえ私の年齢からすると、祖母の年齢まで生きるならばまだ50年程生きねばならないので貯金は大切な行為だと肝に命じなければならない。
そしてその退屈そうな50年を豊かにすべく、生きたお金の使い方をしたい。
メメントモリ。死を想え。
私の人生は何年で終わりを迎えるのかは実は神様すら分からないのかも知れないが、この与えられた生を好きに楽しく生き、明日死んでも悔いなく、あと50年生きても良い様に段取りをしたい。
そして私が最後を迎える時は是非、
わが生涯に一片の悔いなし!!
と拳を掲げ叫びながら昇天する事が今から楽しみですらある。